先日、あるヴォーカルアンサンブルの演奏会で見かけ、すっかり驚いてしまった。それは演奏者が楽譜ではなくタブレットを手に舞台に登場したからである。デジタルとはまったく縁のない古い時代の演目に、およそ似つかわしくない持ち物で違和感を感じつつも、ついに分厚く重い楽譜から解放され、ページをめくる音を気にすることもなく演奏できる時代が来たのだとしみじみ思った次第である。もっとも演奏中は途中でフリーズしたらどうするんだろうという新たな好奇心が頭をもたげ、ドキドキして最後まで音楽に集中できなかった。あとで調べてわかったことだが、楽譜専用のアプリを使うと書き込みや録音、再生も出来るし、タブレットのカメラ機能を利用し、首を振ったり、手をかざしたりするだけでページがめくれるものもあるそうだ。いやはや進化したものである。
私が編集者になったばかりの頃、楽譜は浄書を専門にする職人がすべて手作業で描いていた。音楽記号をツゲの木に彫刻したハンコで、あらかじめ“烏口(からすぐち)”で引いた五線の上に押印していたのである。均一で均等に整列した五線を引き、読みやすいレイアウトで仕上げられるようになるまでには10年以上の修行が必要と言われていた。 当時は写植の文字盤の中にも音楽記号は用意されていたが、それを使って職人並の楽譜に仕上げるには手間がかかり過ぎて、ほとんど使われることはなかったようだ。 その後、製作環境のコンピュータ化が進み、職人が苦労して身に付けたワザはソフトウェアに組み込まれ自動化され、パソコンで誰でも比較的簡単に出来るようになった。“比較的”とあえて言ったのは、自動化された部分は多いものの、仕上がりは入力者の技術とセンスに左右され、読みやすさ、使いやすさへの追求は今も昔も変わらないからである。 その楽譜も書籍や雑誌と同様、印刷物から電子端末へ表現手段を拡げ、ついに本番の舞台に登場するに至ったわけだ。私が見た端末は、演奏者のメガネにバックライトの光が反射していたことからおそらく液晶型だと思われるが、先頃E-inkを利用した電子ペーパー型の楽譜用端末が新発表された。二つ折りで開くとA4見開きより一回りほど大きいサイズ。強い照明の当たる舞台でもE-inkは見やすいし、紙には及ばないものの軽量化も進んでいるようだ。さすがにスマホのような小さな画面で楽譜を見る気にはならないが、ほぼ原寸サイズであれば実用上の問題はなかろう。
さて、演奏中に端末がフリーズしたらの心配ごとだが、それは暗譜していれば何が起きても動揺せずに対応できるだろう。いや、暗譜していたら楽譜を持って出る必要がない。いや、心細いからやはり持って出たほうが……。せっかく電子化して便利になったはずなのに、悩みごとは今も昔も変わらないようだ。