よく知られているように、辞書の電子化が始まったのは、すべての出版物のなかで非常に早かった。辞書出版事業は、他の出版物との比較で、長い電子化の歴史と経験を有していることになる。そして、その電子化の過程は、編集者にとっては、媒体の転換期を生きることでもあった。花田清輝や丸山眞男ふうにいえば、この一種の「転形期」は、自身の職業的ないし社会的役割を徹底して相対化する契機を、編集者に与えたと思われる。少なくとも、私にとってはそうであった。
もちろん、その歴史=物語は、まだ完結していない。それどころか、いっそうの媒体の多様化を伴い、激しく揺れ動きながら現在も進行している。その意味では、とても落ち着いて来し方を振り返る地盤も整備されていないし、その余裕もないと言ってもよい。
それを前提に、一つだけ、きわめて素朴な主張をしてみたい。それは、まことに口にするのも愚かな、単純かつ当たり前の確認に過ぎないのだが、電子化の過程においても編集者は必要であるということである。読者=ユーザーが価値を認める電子媒体商品を提供するためには、紙媒体の場合と同様、編集者の深い介在が不可欠だと言い換えてもよい。
その理由は、これまた何の変哲もないもので、当該書籍をもっとも深く知悉した者が電子版の創造にも関与することで、電子版の価値をより高めることができるから、ということに過ぎない。辞書の場合でいえば、当該辞書の編集方針から、辞書全体の構造、そしてその辞書の使われ方までを、いちばんよく把握している編集者が、電子版の設計に関与することで、その電子版辞書はより使いやすく、より価値あるものに編集できるはずだと考えるのである。
相対化にさらされながら、編集者が自分なりに突き詰めて考えたことが、この程度の事かと、大方の失笑を買いかねないという自覚はある。しかしながら、いま一度、上記の事柄を再確認する必要を、私は感じている。同時に、電子版の設計に編集者が関与することの難しさもまた痛感しており、それゆえに、より強く、編集者の役割の再評価の必要性を感じていると言う方が、正確な表現になるだろう。
自社においても、編集者の電子版への関与を強めるために、さまざまな施策を講じてきた。組織の改編も幾たびか行ってきたが、まだ、最適の解を見いだすには至っていない。ということは、この認識自体の是非がもう一度検証されなければならないのかも知れないが、それでも私は、上記の認識自体を放棄するには、まだ努力が不足していると考えている。
自社の主要刊行物に限っていえば、辞書に続き六法が、そして昨今は教科書が、電子化の波に洗われるようになってきている。そのような状況で、この認識は私のなかでより強くなっているのだが、同時に、試行錯誤がこの先も続くことも確かだと思われる。私自身は、出版社が価値の創造を持続的に続けるためには、「紙媒体を作る人」と「電子媒体を作る人」との安易な分離や棲み分けは避けるべきだと考えるのだが、諸賢のご意見はいかがであろうか。
編集者の電子化への関与
2015.07.16