「1冊いくら」から「1人いくら」へ
2013.05.01
医学書院 金原 俊
日本の出版界の売上は1996年を境に、もう16年も下降を続けている。既に1996年の2/3になり好転する気配は全くない。たぶん二度と戻らないだろう。原因は明白で「インターネット」である。同年を境に急激にネット環境が整ったことで、ネットによる情報提供が出版物に取って代わってきたのだ。ならば「紙媒体のコンテンツを電子媒体にしてネットでも販売しよう」と言うのが目下の出版界の戦略だ。ところがこれが思う様には進まないので困っている。
「ネットが原因」の分析は正しいのだが、「人々は電子の利便性に惹かれた」との理解はどうやら誤りのようである。正しくは「ネットは無料に惹かれた」のではないか。WikipediaやGoogle Earthのような量・質ともに高いコンテンツでさえ無料である。出版の売上は激しく落ち込んでいるが、公共図書館は近年、大人気で、来館者、貸出し数ともに増加していると言う。不思議と言えば不思議だが、無料なら本も読みたいのである。だからフリーペーパーもネットもフル活用する。ネットによって多くの情報が無料で提供される中で、出版物にお金を払うことが馬鹿らしくなったのかも知れない。だとするとこの対応は簡単ではない。媒体を電子化しても紙と同じように「1冊いくら」で販売する限り買っては貰えないだろう。
ここにひとつのヒントがある。欧米における専門書の電子ジャーナルの成功である。欧米でも昔は個々の読者が読みたい雑誌を購読することが多かった。それが次第に大学等の図書館で購読し、皆で共有するようになってきた。やがて電子媒体の提供が始まるとその傾向に拍車がかかり、出版社はまとめて多くの雑誌をデータベースとして施設のネットワークに提供し、施設内の全員で全コンテンツを共有した。その利便性は極めて高く、ほどなく紙の雑誌はすっかり電子ジャーナルに置き換わった。
この媒体の変更と同時にビジネスモデルも大きく変わった。新たにコンテンツの量ではなく、施設内の読者数に応じて価格を定めるFull Time Equivalent方式が導入された。この時、長年の出版の指標だった「1冊いくら」が終了し、「1人いくら」へと大きく転換した。これにより出版社が個別の出版物を制作する製造業から、データベースを配信するサービス業に変わったと言っても良い。このモデルであれば購読料は施設が負担するので、読者は「無料」の恩恵に浴しつつ、出版社側は正当な対価が得られる。専門書は施設が購読する意義があるので、この「1人いくら」にて大データベースを提供するモデルに転換していけば、出版社は対価を維持しながら電子配信ができるように思える。
それでは施設が購読する意義がない一般の出版物はどうすべきか。人々の「無料」願望とでもいうべきものに応えながら、正当な対価を得て電子配信ができるのか。その答えもやはり「1人いくら」にあるように思う。個々の出版物への対価は払わなくても、「1人いくら」の定額料金なら個人でも支払うような気がする。パケット定額のような話である。欧米ではビデオ配信の「NETFLIX」や音楽配信の「Spotify」などの、月額定額で膨大なコンテンツが見られる(聴ける)サービスが急成長しており、iTunesに代表される「1冊いくら」型のサービスを脅かしているそうである。同種のサービスは既に日本でも導入が開始されている。但し、出版物への応用には、まだ少し時間が必要だろう。
コンテンツに「無料」を求める状況があるなら、媒体を電子にしただけでは、人々の需要は何ら喚起されず、出版の低迷は今後も続くだろう。いくつかの電子化の成功事例をみると、実は受け入れられたのは電子化そのものではなく、電子化により「1冊いくら」によらない新たなモデルが導入されたことのように思われる。ここらで長年の「1冊いくら」のビジネスモデルを断念し、「1人いくら」への大転換が必要ではないだろうか。そしてそれは出版業に対して、個々の出版物を作る製造業から、データベースを配信するサービス業への転換を促すものとなるだろう。その発想の転換がはたして出版社にできるか、時代の変化が出版社に課した試練のように思える。