「電子書籍」は本当に「書籍」か?

2001.11.01

文理  浜地 稔

 “紙の本に匹敵する読書端末”とか,“紙の本を電子化する”とかいう議論を聞いて いて(いや,私自身そういうことばを使ってきたし,これからも使うに違いないが), どうも最近引っ掛りを感じるようになった。「電子出版協会」のニューズにこんなこと を書くのはマズイかもしれないが,やっぱり書いてしまおう。
 と言っても,私は“ディスプレイ読書”に否定的なわけでは全くない。それどころか, 「テキスト」であれば,紙で読めるものはすべてディスプレイで読める,というのが 私の実感である。テキストの“意味”や“描写ストリーム”を把握することに限れば, 紙とディスプレイの間には何の違いもない。だから,デジタルコンテンツを「読む」とき, どんなに長くとも原則としてプリントアウトは取らない。
 (例外は「校正」と「持ち歩き」であるが,これについてはここでは省略。)
 画面で読んでも理解できないようなことは,紙に印刷してみたってやっぱり理解できない し,印刷文字を読めば分かるように書かれているものは,画面で読んでも当然分かるので ある。もちろんディスプレイ解像度やレイアウトなど,電子媒体の様々な未熟さに起因 する「読み難さ」という問題はあるが,技術的発展と読者層の世代交代が不可避である 以上,これらは明らかに解決可能であろう。そういえばついこの間まで我々の隣では, “キーボードで日本語が書けるか否か”なんてことが大真面目で論じられていたっけ。
 さてしかし,問題はここからだ。果たしてぼくらは,“理解”を求めて読書するのだ ろうか? 確かに「本を読んでいる」には違いないが,そういう行為は,ふつう「勉強」 「研究」「調べもの」などと呼ばれ,「読書」とはちょっと違う行為とみなされている ように思う。ふつう読書というのは,“読みたい本を,読みたいから(読みたいふうに) 読む”という行為を指して言われるのではないだろうか。つまりは,「読書」とは純粋に 時間を消費する行為,そしてその只中に生起する快楽体験を求める行為なのではないか, ということだ。だったら,「ほら,ディスプレイでもこんなに読み易いでしょう!紙と 同じですよ!」とか言われても,関係ナイのではないだろうか。問題は本当のところ, 「ディスプレイで本が読めるか?」ではなく,「ディスプレイで本が読みたいか?」と いうことだとすれば,ディスプレイで“この本”を“読む”という行為が,いかに我々 の快楽体験になるか,ということが問題なんだ,と思う。
 で,今書いた“この本”というのが,はたして本当に“本”なのか(駄洒落みたいで すみませんね),ということが次の問題なのである。キー概念が「快楽体験」なのだと すると,読書という行為はぼくらの身体性というものに分かちがたく結びついていると 考えるのが自然であろう。この意味で,現存の「紙の本」の“かたち”というものは, 単に便宜的な姿としてあるのではないことは勿論,何らか実用的な根拠(可読性だとか 可搬性だとか)だけに基づくのでもなく,もう一歩根元的なものである可能性が高い, とみなすのが妥当なのではないか。もし本当にそうなら,「読書」に比肩しうるディス プレイ上の「本」は,「紙の本」のメタファから自由にならない限り,読者の快楽体験 の担い手にはなれまい。まだ発展途上であるにせよ,「デジタルコンテンツ」の対人 インターフェースがぼくらの身体性に与えうる快楽体験の諸要素は,明らかに「紙」の それとは異なるはずである。そして「ディスプレイで読みたい本」が登場したとき, ぼくらはなおもそれを「本」と呼ぶのだろうか?