電子出版は「出版のフルコース」
2000.08.01
新潮社 村瀬 拓男
この原稿の締め切り日である8月3日は、「電子文庫パブリ」立ち上げ作業の 大詰めの時期でもあります。「こんな原稿を書いているひまがあるなら、もっと さっさと仕事をしろ」という声が各方面から飛んできそうですが、宣伝告知にも なると思うので、せっかくの機会ですから、パブリのことをネタに少し思うところ を書いてみたいと思います。
「電子文庫パブリ」とは、出版社8社(角川書店、講談社、光文社、集英社、 新潮社、中央公論新社、徳間書店、文藝春秋)が共同して立ち上げる、電子本の ダウンロード販売サイトです。独自の電子本販売サイトを以前から運営している 光文社さんが中心となって、各社に声をかけることによって、この前代未聞の プロジェクトがスタートしたのですが、当然のことながら、ここに至るまでには たいへんな紆余曲折があり、それに環境の急激な変化、各社の思惑などが複雑に からまり、客観的にはとても興味深いものとなっています。もちろん当事者の一人 である私の口から詳しく語るわけにはいきませんので、誰か第三者にレポートして もらうとおもしろいのですが。
それはともかく、このプロジェクトを通してあらためて感じたことがあります。
それは、電子出版というのが、単なる出版の一形態ではなく、「出版のフルコース」 であるということです。企画をなんらかの形に仕上げて読者の手許に届けるのが出版 という作業だと思いますが、紙の出版においては、形態を決めれば(たとえば文庫なの か新書なのかということ)中身や装幀以外のだいたいの要素は確定します。中身の 見せ方だってそんなにバリエーションはありません。えんえんと積み重ねられた「約束 ごと」が山のようにあるからです。
しかし電子出版においては事情が異なります。電子出版にはそんな「約束ごと」は ありません。中身をどう見せるのか、デザインはどうするのか、一つの商品として 妥当な分量や価格はどの程度か、どのように宣伝、告知し、流通させていくのか、 著作者の権利をどう守り、一方で読者の利便性にどこまで配慮するのか、といったこと について、読者、著作者を含めた出版界全体での了解事項、常識、コンセンサスが、 まだ十分には存在していないからです。
そうすると、電子出版に携わる人間は途方にくれることになります。いったいどこ から手をつければよいのか。与えられる制約は「技術的」なことだけです。それも 半年単位で大きく移り変わっていくような。そんなあやふやなものに依拠して考えて いくことはできません。パブリのプロジェクトにおいて関係者が直面したのは、まさに この問題であったように思います。出版界の既存のルールからの類推だけでは問題は 解決しません。結局ある程度「あるべき」全体像を見据えて、出版事業の全プロセスに わたって、ひとつひとつの問題を解決していかなければならなかったのです。このような ことを「出版のフルコース」と称してみたのですが、いかがでしょうか。
これはたいへんな作業ではありますが、考えてみれば非常におもしろい作業でも あります。作るところから読者の手許に届けるところまで、その全てに主体的に関わる ことができるのですから。この「手作り」感覚は、紙の出版においてはなかなか味わい にくくなっています。パブリのような、主義主張が異なる出版社どうしの共同プロジェ クトが、空中分解もせずに立ち上げ直前までこぎつけているのは、携わっている人たち が大なり小なりこの楽しみを味わっているからでしょう。
ということで、そろそろ「苦しくも楽しい」作業に戻りたいと思います。