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紙の本とそっくり!!最近、ダウンロード型の読み物が次々と発刊されている。それに応じて電子読書のためのソフトウェアも多く発表されてきた。なかなか使い勝手の良いものも登場してきており大いに結構なことだ。でも少し疑問も出てきた。 最近のほとんどの読書ビュアは本と同じような概観と操作性を持っている。本と同じように縦長のページを持ち、ページ単位でめくりながら読書をする。横長の画面に縦長のページを埋めこむと窮屈なので、ノートパソコンなどではウィンドウを90度回転させ、画面一杯に表示したりする。パソコンを横にして読むわけだ。また縦長ページを横にならべ見開きで読むこともできる。 電子の本もお馴染みの「紙の本とそっくり!」というわけだ。この「そっくり」が私の疑問なのである。 まず紙の本とそっくりにするとスクロールができない。電子の本にとってスクロールつまり、固定的なページという枠から自由になれることは、表現上の大きなメリットだ。 小説に代表される読み物では文章の意味上の区切りはあまり明快ではない。短編などではひとつの小説がたったひとつの意味上の区切りで構成されるという場合もある。そういったものでは旧来の固定的ページ手法は有効かもしれない。 しかし、専門書や実用書では章節項といった具合に意味上の区切りが大きな意味を持っている。旧来の物理的なページはその区切りとは無関係に文章を分断してきたに過ぎない。ページの最後の1行が次の項目の見出しになってしまい無理やり行を調整する、などという編集作業もページという物理的限界のなせるいたずらだ。 専門書や実用書ではひとつの章なり節の行数にページサイズの方を合わせたい。そんな夢のようなことを可能にしてくれるのがスクロールなのだ。 縦長画面というのはどうだろうか。ディスプレイはなぜ横長なのかという疑問は、テレビはなぜ横長だったのかに行き着き、そして映画はなぜ横長画面だったのかというずいぶん古い話をたどることになるのだろうが…。とにかくパソコンのディスプレイは横長なのである。* 横長の画面に横書きをすると、1行の長さは異常に長くなってしまう。読みやすさと1行の長さは反比例の関係にあるので、横書きではどうしてもディスプレイを区切る必要が出てくる。だから横書きでは縦長ウィンドウと可読性の関連は大きい。これは理解できる話である。 逆に縦書きの場合は横長のディスプレイは都合がよいのだ。日本の縦書き電子書籍ビュアが紙の本をまねて縦長ウィンドウを切らず、横長のウィンドウを採用している点は大いに評価できる。 だから欧米産の電子書籍ビュアの縦長ウィンドウも日本語そして縦書き対応したときには、縦長ウィンドウをやめてもらいたい。横書きの場合でも図や表などを使用する場合は横長画面の方がレイアウトをしやすいはずである。 疑問はまだあるが、読み物系の本を電子化し提供する形として、とことん紙の本のまねをするのも面白いし、読者の抵抗感も少ないから有効だとも思う。現在の緊急課題が蓄積された旧来の本の電子書籍へのへの置き換えだとすればなおさらである。 しかし旧来の本を再現するという場面以外では新しい電子の本のレイアウト・表現を作り出す努力のほうが大切ではないだろうか?紙の本を画面上でいくらシミュレーションしても新しい表現は生まれてこないし、紙の本を超えることはできないのである。 逆に本はなぜ縦長かを考えてみるのも面白い。
横書きの国でも縦書きの国でも冊子体は縦長が基本だ。冊子体が登場する前は巻物だが、これは逆に横長が基本だ。日本ばかりではないパピルスの巻物も横に巻くようだ。横長のパピルスの巻物にどうやって横書きするかといえば、適当なところで縦に線を引き、そこの間で折り返す。いわば巻物版の段組である。
どうやら書き方の方向と媒体の縦長、横長は関係なさそうである。たぶん手で扱いやすいということが縦長、横長を決めているのではないだろうか?縦に巻いてある巻物は扱いにくいし、横に長い本はページをめくるのがたいへんだ。 それではなぜ映画は横長なのか?答えは「劇場は横長の額縁を持っている」だろう。映画を上演するのは屋内である。縦長の壁面をもつ建物は珍しい。▲ |