ボウルを投げるとケンカになる?
少し旧聞に属すが「オウム真理教」という名前を聞いたときに「オーム」なのか「オウム」なのか?と迷った覚えのある方は多いだろう。
内閣告示の『外来語の表記』には「オ」の長音は「オー」と音引きを付けて表記するとある。「オウム」は外来語だから「オーム」と記述するのが正しいような気がする。でもこれは「オウム」が正解だ。
あれだけ異常な行動をした集団だから表記も異常かといえばそうでもない。「Ω」という電気抵抗を表す単位は「オーム」だが空を飛ぶ「鸚鵡」は「オウム」と書く。
この種の例はまだまだある。ピッチャーが投げるのは「ボール」、サラダを入れるのは「ボウル」だ。妻が「ボール」を投げて夫が受ければ仲睦まじい光景だが、間違って「(サラダ)ボウル」を投げるとケンカになる。
かと思うと玉を転がせば「ボウリング」であり、穴を掘るときは「ボーリング」をしなければいけない。外来語の表記はなんとも複雑だ。
ところで最近外来語の世界で幅を利かせている風潮に「現地音主義」という御旗がある。東アジアの人名、地名は特にうるさい。「毛沢東」は「マオツォトン」、金日成は「キムイルソン」と読まないといけないらしい。
ユーザーがテレビなど耳で聞いて検索することもあるだろう。“現地音的読み”もキーワードとして設定したい。でも国で一番偉い人ならともかく少し下のクラスになると現地音を調べるのは難しい。苦労して調べて現地音的読みを入れたとしても絶対に抜かしてはいけないのは世間で通用している「モウタクトウ」「キンニッセイ」のほうだ。これを抜かすと検索できないという抗議がくることは必定である。
さて学問の世界になると形を変えた現地音主義が登場する。木星探査衛星「ボイジャー」を「ボエジャー」、「マルチメディア」を「マルティメディア」と書いている本があった。誤記ではなくこう書くべきとの主張であろうから、キーワード設定者としても書かれている表記を無視はできない。そこで小さなため息をつきながら世間で通用している表記とダブルで記述することになる。
「現地音主義」には疑問がある。外来語は外国語ではなく日本語なのだ。先人たちが漢字に訓という和語を当てはめたように外来文化を日本文化に消化吸収したものが外来語だ。だから現地音を日本語の音やアクセント体系に馴染むよう変形を加えるのは当然の作業だろう。
諸外国の言語の音は到底アイウエオ50音では表現できない。もしどうしても現地音でなければいけないというなら英語ならアルファベット、アラビア語ならアラビア文字、朝鮮語ならハングルでと現地の文字で記述するのが正しい。
ところで現地音主義とは別に同じ外国語を異なる言い方で区別する場合もある。
“tag”という語は洋服や商品に付くと「タック」となり、SGMLなどで標識として付けると「タグ」になる。“mobile”を「モービル」と読めば(これは石油会社だから)車が移動し、「モバイル」と読めば何とコンピュータが移動する。
こういった例は外来語表記の乱れと批判の対象になりがちだが、逆に考えると異なる事象で読みを違えているのだから日本語化としては正しい処理ともいえる。
変幻自在の外来語の世界は検索キーの設定者としては手間ばかりかける存在だ。でも私はここに日本文化の神髄があるようで好きなのだ。
『情報管理』Vol.40 No.8 Nov.1997 より転載