トラペリュン
善美 鐸


1 

 耳元のけたたましいサイレンと瞬間覚醒ガスの吐き気を催させる悪臭が、私を快い眠りの世界から叩き出した。忌々しいことに、長年の訓練のおかげで、私の頭はすぐに冴え、事態を認識した。部屋の全ての壁が最高度の明るさで真紅の点滅を繰り返していたからである。

 いつもの事ながらこの第一級非常出動の指令は心臓に悪い、と思いながら、私はベッドから起き出した。指令カードが入出力パネルに頭を出していた。私はそれを磁気カードリーダーに差し込んだ。IDキーの提示を求めるディスプレイが点滅し、私はそれに従って腕輪につながったIDキーをパネルのスリットにセットした。

「第一指令  エアドック15より5分後に発進」とディスプレイが表示した。

 指令システムは緊急時でも平時と同じである。まず指令カードの受け取り場所のカードリーダーで第一指令が与えられる。これは大抵カプセルの位置を示すだけである。第二指令以降はカプセルの中のカードリーダーでなければ解読できない。しかも解読するときには指令対象者のIDキーを同時に必要とする。IDキーは超小型の電池が内蔵された超低温強化合金でできており、常にある複雑なパターンを記憶している。私のキーにはその表面に「第一級調査要員ジョン=A=マードック」と刻まれている。

 私はカードをリーダーから引き抜いて、腕輪にセットし、部屋を出た。私が出ると、それまで続いていた赤い点滅とサイレンが止まった。部屋の前には緊急時用のリフトが待っていた。共通標準時の午前二時なので、照明を減らした通路には誰もいなかった。こんな時刻にわざわざ緊急リフトをよこす司令部の大仰さにあきれながら、私はリフトに乗り込み、エアドック15を指示した。

リフトは普通の速度でしばらく進み、緊急用ジャンクションから高速道路に入った。かなりの加速と減速を感じると、もうそこはエアドック15だった。

 そこにある貨物用キャリアを見て、私はそこがMADマッドのエアドックであることに気付いた。

MADの正式名称はマス・ドライバーなのだが、この月面上の調査員で一度でもそれに乗せられた者はいやでもMADと呼ばれる理由がわかるようになる。本来は月面で採掘した鉱石を衛星軌道まで打ち上げる装置なので、その用途に使われている分には構わないのだが、たまに緊急に発進しなければならないときには、人間も乗ることになる。もちろん安全なことには違いないのだが、その加速性というのが並のロケットの比ではない。四Gというと大したこともないようだが、それでもこれが月の六分の一Gにならされている体には拷問に値する。

 調査用カプセルを六個抱えたキャリアーはMAD内への移動用のレールに乗って眼下に横たわっていた。私は作業用のスチールの橋を渡り、梯子でカプセルの中へ降りた。

 うす暗いカプセル内では、秒読みのカウンターだけが生きて数字を表示していた。私がカプセルのハッチを閉めると、最後の乗組員の搭乗を示すランプが緑色に灯った。私は左手で通称「おいてきぼり」レバーを握ったまま、右手で急いで気密チェックをした。この最後のチェックが実は一番肝心なのである。もし気密が完全でなければレバーを引くことによってカプセルごとキャリアーから離れることができる。私はこれをしたために命の助かった人間を少なくとも十人は知っているのだ。

 気密チェックを終えると、対衝撃加圧装置を入れた。風船がせり出してきて身動きがとれなくなった。秒読みカウンターが三十秒前を示していた。私は汗ばんだ手を「おいてきぼり」レバーから離した。キャリアーがゆっくりとMAD内へレール上を動くのが感じられた。私はショックに備えてからだの力を抜き、目を閉じた。静かだった。MADの良い点は普通のロケットのあのけたたましい音がない点だろう。

 衝撃は突然起きた。

2 

 発射の後しばらくの間、私は体を休めなければならなかった。発射のショックから立ち直ると、私は宇宙服を着込み、カプセルの各部のチェックをした。

 一通りチェックを終えてから、私は指令の続きを見ることにした。

「第二指令  この調査の目的は、現在確認されたアポロ天体トラペリュンの鉱物資源の有無を確認することである。トラペリュンについて今までに判っているデータはカプセルのコンピューターに記録されている。六基の調査カプセルはそれぞれトラペリュンの中心を原点とする直交座標軸上に投下される。各カプセルはそこで地質調査をすること。調査計画の詳細は次の通り・・・。」

 調査は往復に七十二時間、トラペリュンの上で七十二時間の日程であった。不明な単語を船内コンピューターのインデックスファイルで調べて、私は大体の事態を理解した。

 アポロ天体というのは、小惑星帯アステロイドベルトの中に漂っている小惑星が、何かの拍子にその軌道をはずれ、地球の軌道の中まで乗り込んでくる軌道をとる天体のことである。もともと小惑星帯アステロイドベルトの構成物の軌道はきわめて不安定であるため、木星が傍らを通過したりすると軌道からはずれてしまう。大部分は宇宙の彼方へと飛び去ってしまうが、ごく稀に地球の軌道の内側まで入る。例えばその一つである小惑星イカルスなどは、水星の内側から火星の外側までの細長い楕円軌道を回っている。アポロ天体が地球に近づく確率としては、大体百年に一回月よりも近いところを通過し、二十五万年に一回地球に衝突するという計算がある。

 今回発見されたトラペリュンはこの稀な存在の一つであり、月からたった二十万キロのところを通過する。また、アポロ天体のほとんどは直径がせいぜい一キロぐらいなのに比べて、トラペリュンの直径は十六キロもある。小惑星帯アステロイドベルトの内部で小惑星同士の衝突があり、そのために小さなアポロ天体しか発見されていないのだとすれば、トラペリュンは他の小惑星に比較して段違いに堅いと考えられる。もしそうであるならば、トラペリュンがもとは惑星の中心部にあった巨大な金属塊である可能性があるのだ。

 そして調査の結果鉱物資源が発見されたときには、キャリアーに積んである水爆をトラペリュンに打ち込み、その軌道をずらして地球を巡る軌道に乗せるはずである。

 私は到着までの丸一日暇になったので、月が頭上の窓を通して間近に見える間だけでも見ておくことにした。なにが退屈かといって、宇宙船の窓から見える世界ほど退屈なものはない。天体がすぐ近くにあるときは楽しめるが、星しか見えなくなると、動きというものが全く存在しなくなるのである。

 キャリアーは月を四分の三周したところで軌道を離れ、トラペリュンに向かうことになっていた。頭上では大小のクレーターが滑るように動いていた。月の裏は真昼であった。今頃は地球から見れば新月だろうな、と私は思った。月面の生活では月齢が最も大切な暦である。それによって作業時間が著しく制限されるからだ。

 地球上では誰も賞めない月面の美しさにしばらく見とれていると、突然連絡用のテレビスクリーンに人の姿が映った。トーマス=スコットだった。

「やあジョン。暇なんだがポーカーでもつきあわないかい。」

 私はゲームに参加し、十ラウンドで三十チップス負けた。外を見ると、キャリアーは私たちがトワイライト・ゾーンと呼んでいる地帯にさしかかっていた。月面ではクレーターの影が長く延び、白と黒の縞模様を作っていた。月の赤道上に並んでいる無人燈台が微かに光っているのが見えてきた。

 月の夜側を飛行しているときには、非常事態に際して位置の確認が難しい。小さな燈台でも月の夜の世界を背景にすればかなり役に立つのだ。それがほぼ五十四キロおきに全部で二百個並んでいる。

 月の側の窓からはすぐに暗黒の中に燈台の光が作る点線しか見えなくなった。私は体を反転させて反対側の窓の外を見た。窓の外には球形の青い地球と、月を巡る通信衛星の一つが見えた。月の裏側に勤務していると地球の姿を見ることができない。その球体の柔らかい光は私の心を和ませた。私は出動したのが睡眠中であったことを思い出し、体を椅子に固定し、眠りについた。

3 

 着陸前の数時間はカプセルの再点検で費やされた。

 すでに月は月から見た地球ほどの大きさの白い円となっていた。前方にはトラペリュンが、その部分だけ星空に空いた黒い穴として見えていた。

 カプセルの作業用メカニカル・アームのヒーターがいかれており、私はスコットから部品を分けてもらった。彼はトラペリュンの昼側に降りるのでヒーターを必要としていなかった。私は最も夜側の地点である。トラペリュンの自転速度はほとんどゼロであった。トラペリュンが軽いために、カプセルが降下すれば自転速度は多少変化するだろうが、三日のうちに裏表が逆になるほど大きくはならないと予想された。

 再点検が終わりかけた頃、キャリアーの操縦士、この道二十年のリンダ=フォスター女史がテレビに映った。

「皆さんに伝えます。この通話は有線なので妨害されていませんが、現在無線は全く使えません。磁気嵐のためです。月基地とレーザー通信で連絡したところ、この磁気嵐は太陽黒点異常などが原因ではなく、トラペリュンのせいらしいということです。そこで、今後の通信は全て光通信で行うこととしますので、光通信装置デバイスを各自用意しておいてください。」

 キャリアーは姿勢制御の後、一対四のリサージュ螺旋軌道に入った。私の降下は二番目であった。トラペリュンは現実の重みを持って目の前にあった。地形が赤外線モニターに写り始めた。計器の数字やディスプレイにたびたび雑音ノイズが入り始めたので、私は回路に簡単な磁気シールドを施した。

 軽い衝撃とともに一番目のカプセルが切り離され、ロケットの噴射口ノズルを赤くして降下していった。小惑星としては大きいとはいえ、トラペリュンの重力加速度はその表面でさえ千分の一G程度である。自由落下を待ってなどいられない。カプセルはトラペリュンの表面に墜落≠オなければならないのだ。

 次は私の番である。私は時間が来る前に主操縦装置に自動着陸プログラムをロードした。タイムスケールがゼロを表示すると同時にカプセルはキャリアーから離れ、逆さになって小惑星のまっ暗な地表へ向かった。去り際にキャリアーが光通信でメッセージを送ってきた。

「グッド・ラック」

 カプセルは地表百メートルまで降下し、そこで方向転回してから逆噴射をした。それと同時に、赤外線モニターから着陸に適当と思われる地点を捜し、そこに着陸用センサー「スパイダー」を投下した。

「スパイダー」は、探査器センサーと八個の発振器から成っている。探査器にはロケットエンジンがついていて、発振器は初めは探査器に収容されている。探査器の先端が地表に衝突すると同時に八個の発振器が発射され、探査器を中心とする半径十メートルの円周上にばらまかれる。このときの形が蜘蛛に似ているのである。発振器にはワイヤを通じて信号が送られ、発振器の先端から出た振動が再び探査器に戻る。その結果が船内コンピュータに送られ、地殻の構成や強度が着地に適しているかどうかを判断するのだ。

 いかに重力が小さくても、溝に落ちたりすると危険である。一応赤外線モニターで溝は避けるようにしてはいるが、最後の逆噴射で地殻のもろい部分が崩れて穴が開くこともある。穴が開かなくても、塵が堆積していたり、地中に空洞があるところでは作業は危険性を伴う。幸い、船内コンピュータは強い岩盤の存在を示した。

 カプセルはほんの軽く逆噴射をして着地した。

 そのとき小さなトラブルが発生した。一度着地したカプセルがまた浮かびだしたのだ。どうやら着地用脚の制動バネが強すぎたらしい。私は急いでカプセルの上部についた姿勢制御ロケットを点火し、軟着陸に成功した。

4 

 私がトラペリュンの上でした最初の仕事は着陸ユニットを地表に固定することであった。そうしなければメカニカル・アームを動かすたびにカプセルが揺れ動き、正確な調査が期待できなかったからだ。

 私は宇宙服のヘルメットをかぶり、宇宙服の各部の点検をした。それからカプセル内の減圧をし、ハッチの上にある減圧完了のサインが灯るのを待った。私は安全弁セイフティ・ハッチを開き、異常がないのを確かめてからメイン・ハッチを開いた。

 安全弁セイフティ・ハッチは直径五センチの小さなハッチである。もし減圧が充分に行われずにメインハッチを開くと、中の人間が外に吹き飛ばされてしまう。電子システムによるチェックもされるが、この方が直接的で故障が少ない。

 低重力のトラペリュンの上では船外活動がほとんど宇宙遊泳に近いものになる。私はカプセルに触ったり命綱を張り切ったりしないように気をつけながら、ハンドロケットを操作した。ちょっとした力がカプセルに回転モーメントを与えてしまうからだ。

 私は慎重に地表に降り、腰からリベット銃を外した。そして、カプセルの着陸ランディングユニットの脚部についた台形の鉄板に開いた穴にリベット銃の先を押しつけ、引き金を引いた。衝撃が腕を走り、リベットが鉄板を岩盤に固定した。それと同時に、リベット銃が反動のために私の手を放れて飛び上がった。私は固定したばかりのカプセルの足にしがみついて上昇するのを防いだ。命綱をカプセルの足の輪に結んでおいてから、私はリベット銃につながった紐を手繰り寄せた。高速で発射されるリベットの反動は宇宙空間ではしばしば危険なため、銃の本体が取っ手を残して飛ぶことによりその反動をうち消すようになっているのだ。

 六本の脚を全て固定すると、私はカプセルに戻り、カプセル内を空気で満たし、ヘルメットを取り、一息ついた。私の仕事はそれでほとんど終わったようなものだった。私は調査機械類の自動制御装置に調査開始の命令を与えた。

 今では、調査員などとはいっても、この自動機械の監視者に過ぎない。まだコンピューターが不測の事態に対して人間ほどの判断能力を持っていないためである。それ故、調査員は自動調査機器やその調査内容について一通り知らなくてはならないが、調査そのものには全くタッチしてはいないのだ。

 自動調査機械の群は順調に作業を続けた。ドリルが岩盤を砕き、パイプが地下の物質を採集し、コンピューターがその組成を分析していた。「スパイダー」と同じ仕掛けのもっと精密な発振器があちこちに発射されていた。地中の密度分布が解析され、立体映像として形成されていった。

 私はその間食事をとりながら、盛んに動き回る機械やディスプレイ上の数字を眺めていた。食事は完全真空パックのもので、外部たとえ真空になっても破裂しない。

 作業は順調に進み、私はいつもこんな具合に調子よく物事が運ぶことを心から望んだ。

 こうして私のトラペリュン上における一日目が過ぎ去り、私は機械を動かしたまま、緊急警報装置と強制覚醒装置を連動させ、眠りについた。暗くしたカプセルの窓からいくぶんか大きさを増した月と地球が月光ムーンライト地球光アースライトをカプセル内に注いでいた。

5 

 私は強制覚醒装置に起こされた。眠っている間に何か非常事態が起きたらしいことに気付き、私はあわててシートから起き上がった。眠る前に感じられた地中を伝わってきていた機械の振動はもうなかった。非常事態のために全ての調査機器類は自動的に作業を停止したのだ。

 私は電灯を点けたが、状況を理解するにはしばらく待たねばならなかった。カプセル内がそれほど混乱していたのだ。嵐でも吹き荒れたような状態だった。シートの白い詰め物、引きちぎられた電線、割れたランプのプラスチック、このようなものが低重力のために落ちもせずカプセル内を一面に漂っていた。

 私はひとまず強制覚醒装置のスイッチを切り、空中に浮いているものを片付け始めた。私は小道具類の入っているケースから小型の加圧掃除器を取り出すと、それらを吸い込ませた。

 一通り掃除が済むと、私は穴だらけになったシートに座り、頭痛を癒すためにコーヒーを飲んだ。次に、機械類の故障個所を点検した。幸い、破壊の派手さに比べ、機能的には大した被害はなく、まもなく調査機器を支障なく動かせるようになった。

 私は機械が動き始めたのを見ながら、考えをまとめるために声を出して事態を整理し始めた。

「まず、何らかの物理現象がこのカプセル内で起きたことは確実だ。無数のひっかき傷と破壊箇所があるが、壊された物と壊されなかった物を比較すればその力は金属には影響を与えない程度のものらしい。

 しかし、その前にこの現象がいくつかの場合に分けられる。第一に、純粋な自然現象。第二に、超自然現象。第三に、生物による現象だ。他にはないだろう。

 第一の場合だが、ハッチが閉められている現在、カプセルの中は一つの孤立系と考えられる。電界や磁界は外部の影響も受けているが、この現象はそうでないことは明らかだ。カプセルの内部にはこういう自然現象を起こすエネルギーはない。

 第二の場合はどうしようもない。これが超自然現象であるかどうか私には判断できないし、仮にそうでも、手の打ちようがない。宇宙のポルターガイストの魔除けなど誰が知るものか。

 さて、第三の場合。これは難しい所だ。このトラペリュン上に生物が存在するのは難しいというより、ほとんど不可能だろう。しかし、それは私たちの感覚での生物であって、もしかしたらこのような環境に適した生物がいるかもしれない。仮にいたならば、その生物はたぶん私がカプセルを固定しに外へ出ているときに入ってきたのに違いない。それ以外にはハッチを開けていないからだ。」

 そこまで考えて私は戦慄した。

「それならそいつはまだカプセルの中だ!」

 私はあわててコンピューターに重量変化のグラフを作らせた。カプセルの重量は私の船外活動の時減り、その後で元に戻り、発振器の射出に際して減っていたが、その他の変化は無かった。

 私は得体の知れない恐怖を感じ、しばらくの間この推論過程をつぶさに検討してみた。しかし、何も得られなかった。

 そのうちはっきりしてきたことは、私がいくら考えても実際には何も解決できないであろうということだった。実際問題として、私が対処し得るのは第一の場合か第三の場合で、しかも理屈にあった説明のつくものであった。相手が姿も質量もない物ではどうしようもないのである。

 私は気を取り直して食事をとることにした。そして、食糧の入った箱が開けられ、中身が肉類を中心に半分ほど減っている事実に私は気が付いた。

 このことは私の頭をさらに悩ませた。消えた食料の分の質量は全く減っていなかったからだ。

6 

 その後三十時間、私はともすれば恐怖に挫けそうになる理性を保ちながら問題を考え続けていた。眠る気にはならなかった。眠るとまた何かが起こりそうな気がしていた。一方で地質調査は着々と進み、コンピューターは膨大なデータを蓄えた。地中にはかなりの量の磁鉄鉱の存在が確認されていた。

 私はそれを見ながら皮肉な気持ちになった。外では最新鋭の自動機械が岩の調査をしている。今本当に調査が必要なのはこのカプセルの中にあるというのに!

 二回、キャリアーが交信可能範囲に入ってきたが、私は定時報告を送っただけだった。何があったと言えるのだろう。測定値には何も変わったことはないのだから。

 そのとき私は解決の糸口を発見したような気がした。測定値には何の異常もなかったのだろうか。何か記録されているかもしれない。私は連続して記録されたデータを時間的変化を示すグラフとして片端からアウトプットさせて見た。そして、ついに私は手がかりを発見した。それはとんでもない所にあった。私の生体監視システムにあったのである。

 生体監視システムは宇宙飛行士の体調をモニターし、異常時には簡単な治療もできる装置である。入力装置は宇宙服にあり、計測されるものは体温・発汗・脈拍・脳波・血圧などである。

 私の体のそれらの計測値は、就寝時には正常なものであった。しかしその後、全ての値が加速度的な増加を始めていた。そして就寝三十分後には覚醒時の値をも上回ってしまっていた。モニターにはこの時に鎮静剤を投与した記録があり、生体監視システムが明らかな異常を認めたことを示していた。人間の体を機械が管理することには問題があるので、生体監視システムの治療は危険な状態になるまで行われない。私の身体の異常は相当なものであった違いなかった。

 私は私の推論過程の誤りを見つけた。第四の場合として私自身が原因である場合が見落とされていたのだった。こう考えると、いくつかの疑問が氷解する。

 私は私の皮膚の切片を切りとり、それを無重力用プレパラートに入れた。テレビスクリーンに映った細胞はごく普通のもののように見えた。私はその細胞に対していろいろな実験をして私の突然の体調の変化の原因を探った。データの整理には自動調査機械の制御用コンピューターがその性能をフルに発揮した。

 まもなく解答がディスプレイ上に現われた。

7 

 キャリアーが三回目の交信可能地点に来た。私は通信を送った。光通信は情報の密度を高くできるので、交信時間が限られているときは一度録画して圧縮したものを送ることができる。

 その通信の中で、私は私が正体不明の神経性らしい疾患にかかっていることをデータを付けて示した。そしてそれが発作的に再発する可能性があり、その場合カプセルの操作に重大な支障を来たすので、代わりの操縦者を迎えに寄越してほしいと伝えた。

 キャリアーは返事を送ってくる前に交信可能域から外れた。しかし、このように交信がひどく不便なときに通信を送る手段がまだ残っていた。私は期待して船の外を映すテレビカメラをズームしてキャリアーの姿を追わせた。

 キャリアーが地平線に隠れる寸前、キャリアーの尾灯が一連の点滅をした。それはモールス信号で「OK」を表していた。

 私は安心した。そして、テレビスクリーンをコンピューターディスプレイに切り換えた。私の体の異変の原因が画面に現れた。そこには、

「強磁界内において特定のガンマ線パルスの連続照射を受けると細胞が異常な活性を示す」

と書かれており、そのパルスの波形が示されていた。それはムーンパルスの波形と同一のものであった。

 一時衰退の一途を辿っていた宇宙開発が復興したのも、このムーンパルスの発見が原因である。ムーンパルスというのは月面に豊富に存在するウラニウム鉱石が太陽光線の直射のエネルギーで崩壊速度を大きくしたときの放射線の持つ独特のパルスである。今や公害の心配が全くない月面上には大規模な原子炉が建てられ、そこから送られるマイクロウェーブが地球のエネルギー需要を満たしているのである。

 トラペリュンに着いてから徐々に大きく見えて来た月は、その頃には地球から見た時のほぼ二倍の大きさで中天にかかっていた。月の裏側から直接地球へビームを送ることが困難なために開発こそされていないが、月の裏側にも表側と同じだけのウラニウムの埋蔵量が予想されている。その全てが放射するムーンパルスを受けていては、病気の再発は不可避と考えるべきだろう。月に勤務していたときに発病しなかったのは、月には強磁界がないためなのだ。

 私は帰還の準備を始めた。調査機器制御用コンピューターに調査を早めに切り上げるように指令した。クレーンやドリルが序々にカプセル内に格納されていった。

 私は格納済みを示すランプが次々に点いていくのを見ながらパック詰めのサンドイッチと熱くしたチューブ入りコーヒーの食事を始めた。

 そのときおれは急にケースに残った食い物を全部食ってしまいたくなった。

 私は驚いてサンドイッチを持った手を止めた。私はこの荒々しい思考には縁がなかった。また発作が出る前兆かもしれなかった。前の発作の時には眠っていたから判らなかったが、この病気に心理的症状の前兆があることは充分に考えられる。私は急いで食事を済ませた。そして、ヘルメットを被り、カプセルの中を真空にした。私は道具箱からロープを出し、自分の体をシートに縛りつけようとした。

 おれは縛られるのはいやだ。

 私はロープを引きちぎろうとする手に手錠をかけた。心の奥から絞り出てくるような意識は次第に強く抗し難いものとなってきた。

 私はその格好のままキャリアーを待ち続けた。なかなか船が来ないので、私は明かりを消してこの病気について考えてみることにした。

 この病気は外的な因子によって起こることは確かであろう。細胞が異常な活性を示すのが一つの原因であれば、ただの精神病でもあり得ない。このような病気が今までに報告されていないことを私は船内コンピューターのメディカルファイルを通じて知っていた。私はその理由を考えてみた。地球上では磁界があるし、強磁界に偶然さらされた人もいたであろうが、地球上のムーンパルスはバン・アレン帯によって弱くされているために、発病しなかったのだと考えられる。月面上にいる人々は地球上の人々よりはかなり強いムーンパルスを浴びているが、磁界の影響は全く無いと言って良い。私が偶然ここに来なければ永久にこの病気は見つからなかったかもしれない。

 私はそのとき降下して来るカプセルを窓越しに見つけた。トラペリュンの陰になっているためにまわり中にライトをつけたカプセルはまっ直ぐこちらへ向かって来ていた。私は標識灯のスイッチを入れた。椅子に体を縛ってしまったために窓から見える視界が限られ、私はキャリアーの姿を見ることができなかった。

 私は再び病気について考えた。私より重症の人が今までにいたとしたら、どういう診断を受けていただろうか。磁気アレルギーによる精神錯乱とでもされるのだろう。病気を起こさせる外的要因のうちのムーンパルスの強さの方が変化するのは地球から見た月の光っている面の量によるのだから。

 そこまで考えて私は恐ろしい仮定に思い到った。その仮定を受け入れれば、何故発作中に食物を貪り食ったかもはっきりする。エネルギーが必要だったからだ。発作中の生体監視システムの記録もエネルギーの大量消費を示している。では何のエネルギーか。暴れた跡があったが、あの程度の暴れ方では食糧の大半を食べてしまうことは無い。エネルギーは私の体を変えたのだ。

 私は薄れゆく意識を奮い立たせて、既に着地したカプセルからこちらへ宇宙遊泳して来る男に危険を報らせようとした。その 宇宙服は私の中の存在をさらに凶暴にするに違いない。しかし、そのとき既に私の体は自分の意志で動かすことができなかった。私は必死に動こうとした。私の手がかすかに動き、スイッチの一つに触れた。それは室内照明のスイッチだった。

 室内の照明が点いたことにより、私の姿が窓に映った。最後の意識で自分の姿を見た私は仮定が正しかったことを知った。

 窓に映った宇宙服のヘルメットの中の顔は人間のものではなかった。月齢に最も関与した伝説上の怪物の姿だった。

 それは狼だった。


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