■日刊“電子新聞”の試み
95 年当時、月刊雑誌「INTERNET magazine」では、勃興するWeb サイトや関連する製品・サービスの情報を読者に届けるにあたり、月刊という時間が長い事に不満を持っていました。週刊誌の企画案を考えてはみたものの、紙の印刷メディアでは、編集スタッフや、紙代・印刷代といった制作コストといった面で多大な運営資金が必要となる上、週刊のスパンですら急伸長するマーケットを捉えるのには速度的に足りないと感じていました。制作・配布コストがかからず、速報性のあるものを考え
た中、電子メールを使うというアイディアが生まれ、95 年12 月1 日「INTERNETWatch」は“電子新聞” の名のもと、テストマーケティングの期間も見て、プレ創刊しました。
当時、PC のディスプレイは640 × 480 ドットのVGA が標準で、それの表示文字桁数が80 桁でした。その環境できちんと見えるようにということで、“一行は76 字詰、ぶら下がりありで最大79 字まで” といったように、とにかくすべてが初めての試みでしたので、何もかもがルール決めから行なわなければならず苦労も多かったのですが、出版社としては、紙に印刷もしないで日刊で何かが出せるということが、なによりもエキサイティングであり新鮮でした。少ないスタッフ数で運営していたのと、ニュースとなる対象は小さなものまで拾い上げればキリがないほどありましたので、定時に目覚まし時計のアラームをセットし、原稿書きには1 日の作業の区切りをつけるといったようなこともやっていました。とにかく最初は手探りで手際も悪く、メールを配信するまでに結構時間もかかりました。
当時はまだ市場では広告モデルすら確立されておらず、メディアとして維持・継続するために、新聞や雑誌のように購読料での収入を考えていました。しかしながら、有料のメールというものはとにかく初めてでしたから、価格の妥当性や、読者の許容金額については、プレ創刊の無料配信の期間中に直接読者に質問をしました。結果、月額300 円に購読料を決め、96 年2 月1 日に有料化とし、正式創刊となったわけです。
購読者は、専門性の高い内容のメールをお金を払ってでも取ってくれるという方々ですから、配信数(購読者数)が増えれば、広告媒体としても成り立つということも考えていました。しかし、メールに広告を入れるということも初めてですので、これにもルール決めが必要でした。“広告一単位は1 行76 文字(全角38 文字)× 5 行” といった、後に広くメール広告の業界標準のようになったレギュレーションも、当時のINTERNET Watch が決め、実践していたことでした。
■市場全体が手探りで
INTERNET Watch は、このままメールがメインの形で1 年ほど続くのですが、Web の日刊媒体はPC Watch の方が先でした。最初はINTERNET Watch の読者向けに、新聞で言うところの“日曜版” のような位置付けで、PC Watch としてのメールを週一回配信していましたが、PC 等、有形の製品が多いのに写真も無いのはやはり表現力に乏しいと感じ、Web 版の日刊発行を行なうことにしました。このPCWatch のWeb 版も、INTERNET Watch のメール同様、96 年5 月6 日に最初はプレ創刊という形で開始し、約2 カ月半後の96 年7 月22 日に正式創刊としました。さらに約1 カ月後の96 年8 月27 日には有料のメール版も開始しました。
当時のWeb ブラウザはまだ表示能力も貧弱であり、「TABLE タグは使ってもいいのか?」等々、これまた制作は手探り状態でした。「1」のような数字単独の記述の場合、全角もしくは漢数字の方が読みやすいか、とも議論はあったのですが、2byte の日本語が文字化けしても、英数字は半角にしておけば、“Microsoft” といったような英語表記の企業名や、“16MB” といった単位数字は英語圏の閲覧ブラウザでも読め、断片的にでも何が書いてあるかの意味は取れるだろう、ということで、英数字は半角表記にしました。
当時はまだリリースはFAX や郵送ベースで、メールで来ることはほとんどなかった時代でしたし、メーカーさんから届く製品写真は紙焼きでしたので、フラットベッドスキャナは必需品でした。製品写真の画像データをメーカーさんのWeb サイトからダウンロードできるようにしてほしいということを、お願いしてまわったものです。また、当時、デジタルカメラはすでに登場していましたが、まだ高価で編集部に2台しかなく、取材には銀塩カメラは欠かせませんでした。
電話での確認、追取材の際も、まだメール、Web ともにメディアであることの認知が低く、社名・媒体名だけでは取材である旨の用件がなかなか伝わらずに苦労したものです。また、デジタルカメラでの取材も、当時の機器は35 万画素と画素数も低く、望遠機能もなかったので、発表会ではいつも最前列でした。必ず一番前列で見慣れないカメラを構えているものですから結構目立ちましたし、メーカーさんにはそのせいで覚えてもらえることも多かったのは、怪我の功名とでも言いましょうか。当時はまだメーカーさん側にもNDA の概念がしっかりとはなく、メールやWeb の場合は配信・公開が短時間で可能な分、それが事実上のメーカーさん側の情報解禁となり得ました。また、96 年当時はメーカーさんのWeb サイトが出来だすのも同時進行でしたし、外部向けのリリースが先で、自社Web サイトの公開はその後というような、“東証ルール” と言っていた作法がありました。メーカーさんの自社Web サイトにリリースの情報が上がっていないことには、Web のリンク先が指定できませんので、「○月○日現在、この件に関する情報は掲載されていない」といった記載の元、メーカーさんサイトのトップページのURL を記載していました。これは結構メーカーさんに嫌われもしましたが、それもあってメーカーさんとは情報解禁の日付・時間の設定をよく相談したものです。
メールの配信サーバーや、Web サーバーといったインフラの機器類も、すべて自社管理でしたし、まだ市場全体が手探りの時期でもありましたから、トラブルは常におきていました。“メールが届かない” “Web が見えない” といった読者の方々からお叱りのメールもたくさんいただいたものです。休日にサーバーが止まり、技術部の担当者が捕まらないので、編集の担当者がタクシーを飛ばして会社まで来て、サーバーを再起動して対応した、といったようなこともありました。
その後、PC Watch 創刊と同じ1996 年に「窓の杜」を、翌1997 年には「AKIBA PC Hotline!」を……といったように、徐々に専門テーマの媒体を増やして行き、2008 年現在、そのテーマは全部で12 まで拡大してくることが出来ました。その間、個人ユーザーのネット接続環境が劇的に良くなったり、RSS やブログに代表されるような、新たな仕組みも当たり前のように普及し、ネットを取り巻く環境も大きく変わっています。今後も、技術の進化・変革に伴ない、環境は変化し続けて行くのでしょうが、読者の皆様に指示される中立なメディアのスタンスは、創刊当時と変わらずに持ち続けて行かなければと思っています。
◎小川 亨(おがわとおる)初版時は「Impress Watch」発行人