■「嘘字はだめ」
電子広辞苑誕生の物語は1984(昭和59)年3 月、ソニーの鈴木晃さん(当時コンポーネント営業部長)が富士通の神田泰典さん(当時オアシス開発部長)の元へと来訪したときから始まります。鈴木さんは開発中のCD-ROM を何に利用したらよいかを考えていました。当時とすれば驚異的な容量を持つCD-ROM でしたが、いったんデータを書き込んだら修正することができません。コンピュータの媒体としては新しい使い方を開発しなければ宝の持ち腐れだったのです。
神田さんと鈴木さんの結論はCD-ROM で辞書を作ろうということでした。データが書き換えられないということは逆に言えばデータが壊れないことで、辞書や出版物に向いた特性です。そしてランダムアクセスという特性は辞書に向いています。
当時富士通が得意な分野はワープロ専用機でした。文章を書くワープロと辞書の組み合わせはとてもいいアイデアと思われました。
でも辞書はどう作られているのだろうか? 神田さんも鈴木さんも見当がつきませんでした。そこで大日本印刷に相談に行くことになったのです。最初の相談から2年たった1986 年(昭和61)年3 月のことでした。
鈴木さんと神田さんに対応したのは吉田安孝さん(当時CTS 事業部CTS 開発部次長)でした。吉田さんは営業からCTS 部門に転属になったばかりでした。吉田さんは2 人の話を聞きますが何を言っているのかさっぱり分かりません。何しろコンピュータ組版の部署に転属したばかりです。コンピュータの知識は皆無だったのです。でもこの部分だけはよく分かりました。「ワープロには仮名漢字変換の辞書はあるが意味が出てこない。意味が出る辞書が欲しいのだ」。
同音異議語などの差を確認するのなら国語辞典だ。それなら広辞苑はどうだろうか。実は吉田さんは岩波書店を古くから担当しており、広辞苑も第2 版から担当していたのです。そして広辞苑は第3 版からCTS 化されていてデジタル化が済んでいました。
吉田さんはターゲットを広辞苑と決めてすぐに岩波書店へと向かいます。岩波書店では西川秀男さん(当時辞典部部長)と安江良介さん(当時出版編集担当役員)と会いました。西川さんは話を聞くと「これは面白い! やろうやろう!」ととても乗り気のようでした。
しかし岩波書店内部の会議にかけると慎重論が大勢を占めます。何度も役員会が開かれました。3 ヵ月くらいたっても結論はでません。もめたというより訳がわからない、相手は巨大なメーカーだ「してやられるのではないか?」疑心暗鬼が会議を主導します。
富士通は実際のイメージを見てもらおうとワープロの画面に広辞苑を映し出し岩波書店の面々に見てもらいます。すると岩波書店からはこんなのではダメだといわれてしまいます。
何でダメなんですかと聞くと「ここに嘘字が出ている。広辞苑は嘘字はだめなんだ」という。当時の画面の文字は24 ドット角で構成されていました。だから複雑な文字は省略されてしまうのです。困った富士通は当時開発中だったワープロを用意します。この機種は32 ドットの文字を出せました。そして画面も従来の黒地に緑文字から、白地に黒い文字を出せるように改良されていました。
再度見てもらい32 ドット文字に納得してもらうと同時に画面が紙の白に近いと好感を持ってもらうことに成功しました。
大量引用についても危惧が出されます。ボタンひとつで簡単に大量引用されては困るというのです。そこで画面をカーソルでなぞらないとコピーできないようにソフトを変更します。
そんなやり取りの中で徐々に話は進展はするものの最後のGO がでません。6 ヵ月後の86 年6 月、富士通と岩波書店の間にCD-ROM 辞書の「実験」に関する覚書が取り交わされます。その時点ではついに商用とは書けなかったのです(この覚書は後にソニーと大日本印刷を加え4 社の共同開発体制となった)。
■実験発表が大反響を呼ぶ
「実験」という制約はついてしまいましたがいよいよCD-ROM 辞書の制作が始まります。
岩波書店には段ボール箱が数十箱、届けられます。広辞苑の組版データから「見出し語」「表記」「解説」などを切り出してプリンタで打ち出したモニタリストです。デジタル組版データというと簡単にテキストを取り出せると思われる方が多いのですが実際にはとても困難な処理です。経験のない切り出し処理は大日本印刷にとってもトライアンドエラーの連続だったのです。西川さんたちはダンボール箱数十箱のモニタに赤字を入れる作業に取りかかります。
1986(昭和61)年10 月、経団連の会議室で広辞苑の電子化の発表が行なわれました。広辞苑の電子化というテーマは大きな注目を浴び、集まった記者の数は新聞社200 社、雑誌社200 とか300 社とか。午前と午後の2 回に分けての発表になりました。
翌日の新聞、各紙大きなスペースで取り上げます。曰く「紙がなくなる!」出版物がすべてCD-ROM 化されるという論調です。
この反響の大きさが電子広辞苑の商用化への道を切り拓きます。その後1 年間かけ商品化のための作業にかかります。
コンピュータらしい機能を追加したいと本文中の語句で引ける機能――条件検索が加えられます。「フランス」「印象派」「画家」でマネ、モネとならんで黒田清輝が検索できるといった機能です。現在なら全文検索で簡単にできることなのですが当時のマシンパワーでは到底不可能です。西川さん達は本文から重要な語句を手作業で拾い上げる膨大な作業をこなすことになります。
1987(昭和62)年7 月についに『電子広辞苑』が発売されました。価格は2 万8千円でした。書籍版の5 倍もする価格にあった演出をと最初のパッケージは何とジュラルミンケース入りでした。当時このCD-ROM を見ることができるワープロの価格も約200 万円。とても高価な商品としてスタートを切ったのです。
半年後、NEC からパソコン版が発売され音や色も出せる辞書に進化していきます。しかし新聞の派手な取り上げとは違い思うように売れてはいきません。ようやく売れ始めたのは90 年代も半ばを過ぎてWindows95 が出た頃、10 年を待たなくてはならなかったのです。
【初版注】 当時、中心になって電子広辞苑を開発されました岩波書店の西川秀男氏は、2006 年にお亡くなりになりました。この項は、共に開発に携わった吉田安孝さんとライフメディア坪倉孝さん(当時富士通パーソナルシステム事業部第二開発部計画課)のお2 人のお話を元に編集委員ががまとめたものです。
【注】この記事は初版時の編集委員であった長谷川秀記さんがまとめました。
◎吉田安孝(よしだやすたか)大日本印刷からJEPA に参加。
◎坪倉 孝(つぼくらたかし)富士通からJEPA に参加。