■CD-ROMの出現
日本電子出版協会の旗揚げの発端は、CD-ROM の出現にあります。何故、そこにフィリップスでもソニーでもなく、古色重厚長大な日立が関係するのか、そこに少し触れたいと思います。その昔、電機メーカは例外なくオーディオを手がけていました。結局、CD の出現と共にLP レコードと家具風ステレオ産業は死滅してしまいましたが、ご多聞に漏れず、日立も木製スピーカ工場を破棄しつつ、CD プレーヤの開発に注力していました。当時は家電メーカに比べIC が得意でしたから、他社が3 チップ
構成のところ2 チップ構成にできました。当然、次は1 チップ構成にして市場を席巻できた筈です。ところが何を血迷ったのか、逆に高機能3 チップ構成を作ってしまったのです。
当然、市場は家電メーカのチップに取られてしまいました。ところが救う神ありです。CD-ROM です。フィリップス・ソニーからCD-ROM の仕様の発表があった後、真っ先に製品が作れたのが日立なのです。CD-ROM では、エラー訂正を2 重に掛けます。そこに日立のチップが使えたのです。それに、同一フロアでパソコンも開発していたこともあって、ドライバーソフトなど周辺ソフトも直ぐ用意できました。そんなこともあり、当初の2、3 年は世界シェア80%以上とダントツでした。逆に言うと、そんなには売れなかったということです。
マイクロソフトのビルゲイツも熱心で、CD-ROM ベンチャーのトム・ロペスの会社を吸収し、毎年CD-ROM コンファレンスを開いてくれました。日立としても異例の販売体制を敷きました。当時、日本のパソコンは日電がダントツで、各社のパソコンには互換性がありませんでした。それに比べ、米国はPC-AT 互換機一色なので、日本よりは売りやすかったようです。でも、お店に並べて売る製品ではありません。しかし、受注生産をやっていたのでは、米国では商売ができません。そこで米国に在庫を持って細かい技術サポートをやる専任部隊を置き、市場開拓をやりました。
当初は、薬のデータベース屋さんが沢山買ってくれたようです。従来は磁気テープでデータを売っていたものを、ドライブとCD-ROM をセットで顧客に売り、大儲けされた若い方が東海岸にいたと聞いています。顧客にもCD-ROM の使い方が浸透し、PC に内蔵する機運が出て来た頃になると、日本から家電メーカがやって来ました。
日本国内では日立はメインフレームコンピュータの販売が主力で、パソコンもCD-ROM もメインフレームのオマケでした。当時のCD-ROM 製品担当部長は村上で、営業が多田、研究所の小生がサポート纏め役になり、JEPA の仕事は若い山田が担当しました。オマケとしては興味深い製品だったので、大した金額にはならないのに忙しいと、営業からぼやかれていたようです。でも客から声を掛けてもらえるので営業も嬉々として働いていました。
■ハイシエラ、CD-I 、XA……
さて、小生自身は当時横浜の研究所で、音声、手書き入力、フロッピディスク、光ディスク応用をペリフェラルという括りで、やっておりました。そこへ、新学社の堀内さんが横浜に見学に来られ、あれこれ話している中で、出版クラブへCD-ROM の話をしに行くことになり、そこで前田さん、大高さんを紹介していただき、CD-ROM電子出版に足を突っ込むことになりました。システム標準化委員会の委員長を堀内さんが引き受け、CD-ROM の互換性の議論を始めました。
当時日本のパソコン自身が互換性が無いうえ、しかも未だCD-ROM ファイルフォーマットISO9660 の前身のハイシエラフォーマットも誕生ホヤホヤでした。このハイシエラフォーマットには裏話があり、マイクロソフト、DEC、Apple、3M、ソニー、日立等が集って作ったことになっていますが、日立と組んだTMS というベンチャーが全てお膳立てして、議長として仕切り、殆どの方は会議では寝ていたという話が残されています。真偽の程は、寝ていた日立の担当者には判らなかった筈だという
オチと一緒に。
このハイシエラフォーマットの公表が1986 年5 月、電子出版協会の正式発足が1986 年7 月になります。最初の仕事としては、CD-ROM の日本語対応を議論しました。ファイルの内容はユーザの問題なので、委員会ではファイルシステムの日本語対応に限定しました。ジークの山崎俊一さんや、日本ユニシスの若鳥さん等に議論をリードしていただき、日本語対応CD-ROM 論理書式なるものを完成させました。そうなると皆で互換性テスト用CD-ROM を作ろうということになりました。
1988 年には「テストディスク編集会議」を作って議論し、三修社(8 か国語辞書データベース)、日外アソシエーツ(人物データベース)、学研(小学国語辞典)、岩波(広辞苑)、新学社(植物図鑑ハイライト画像)、アスキー(天文シミュレーション)、東洋経済(為替総覧)、音楽出版社(CD カタログ)、国会図書館(書誌データ)、通産省(データベース台帳)、大蔵省印刷局(職員録)、ジーク(学習システム)、マイクロソフト(Quick Basic)、イースト(TIFF 画像)、エムピーテクノロジー(ハイパーテキスト理論)、データディスクシステム(図書関連名簿)、ハイテクラボ(中国の旅)、富士通(C言語基礎CAI)、日電(マルチメディア)、東芝(和服商品カタログ)、日本コロムビア(商品カタログ)、日立(画像ファイル)などのデータサンプルや解説書を入れることにしました。テスト用とはいえ、各社の出版物を1 枚のCD-ROM に入れるのは画期的だと、堀内さんが「和同開珎」と命名されました。制作にあたり、堀内さんが通産省と交渉し、データベース振興センターから開発委託を受けて、費用を全額出して貰いました。
同じ頃、注目された技術にCD-I があります。フィリップスのブルーノさんが横浜の研究所に説明にやって来ました。よく聞くと、CD-I はディスクの規格ではなく、CPU、OS、アプリケーションレイヤーまで決めたホームコンピュータ構想であることが判りました。日本勢を巻き込み、マイクロソフトと違う世界を家庭の中に持ち込み、主導権を取りたいという下心が見えていました。既に日本ではパソコン敗者連合のMSX パソコンが任天堂のゲーム機に負け、中途半端な機械は売れないという空気
が既にあり、あまりCD-I 構想に肩入れした日本メーカは無かったようです。
ただ、研究所としてはフルスペックの実物を用意することになり、CPU にMC68040、OS にOS9000、仕様通りの手作りのグラフィックエンジンを搭載し、応用ソフトとしては新学社さん、大日本印刷さんと組んで、世界初の植物図鑑を試作し、ブックフェアとエレクトロニクスショウに展示しました。百科事典などの引き合いはありましたが、当時の汎用パソコンのマルチメディア機能が貧弱なので、手を出しませんでした。
この硬直化したCD-I を汎用パソコンに生かそうとしたのがXA フォーマットで、1989 年に提案されました。また、1988 年には、インテルがCD-ROM にビデオ信号を入れるDVI を発表しました。この技術は、その後の動画技術開発競争の引金となりました。初代のIBM-PC に載ったインテルの8088 が0.33MIPS でしたが、その後の半導体技術の進展で、現在のCPU は単純なMIPS 値で10 万倍、いわゆるマルチメディア処理能力では100 万倍を越え、電子出版でJPEG、MPEG などの画像が自由に使えるようになりました。それに1990 年代半ばには商用インターネットが始まり、電子出版ビジネスがCD-ROM からネットに移ったのが2000 年になります。さらにパソコン以外の携帯電話やゲーム機にまで電子書籍が提供されるようになりました。早くから取組んだ辞書の分野は別として、やっとビジネスとしての電子出版が始まったかに見えます。
◎三瓶 徹(さんぺいとおる)日立製作所からJEPA の活動に参加。現在、JEPA 事務局長